ラベリングの罠

法律を専攻していた大学時代、一番楽しみにしていたのは、藤本哲也先生の刑事政策と犯罪学の講義でした。

藤本哲也先生は「ラベリング理論」を日本に紹介した人で、講義の中で面白く語られたこの理論に、当時のわたしは衝撃を受けました。

ごく簡単に言うと、社会が「この人は犯罪者だ」というレッテルを貼ることによって、刑期を終えて出所し更正したはずの人が再び犯罪に走ってしまう確立が高くなるという話でした。そして「累犯」と言って5年以内に刑務所に戻る人が多いのだそうです。

アメリカでは、それを回避するために、軽犯罪では「社会奉仕命令」を代替刑としているという話を聞いて、とてもすばらしいと思いました。数年前にコカインの所持で捕まったパリス・ヒルトンが、街の落書きを掃除する様子が報道されましたが、あれも「社会奉仕命令」のひとつです。

社会がそういった「ラベル」で人を判断するのはとても悲しいことですが、良くも悪くも、人は期待に応えようとしてしまいます。他者からの評価は、わたしたちに自覚している以上の影響を与えるのだと思います。

このことを思い出していた時、自分が自分にしている「わたしはこういう人間だ」というレッテル貼りの方が、実はたちが悪いんじゃないかな? と思い付きました。こういった思い込みは、誰でも持っていると思います。

それは、アイデンティティのように見えて、行動を制限するものにもなります。「わたしはこういう人間だ」という思い込みに適合する範囲のことしか、できなくなるからです。つまり、わたしたちは自分を閉じ込める檻を、自ら築いているのです。

「わたし」を定義するものが無くても、人は、誰もが輝く個性と、無限の創造性を持っています。それなら、完全な「空」になり、制限を外したほうが楽しいに決まっています。

「わたしには無限の可能性があって、だから人生は面白い」

こう思えるようになってから、毎日が楽しくて仕方がないのです。