観察者でいること

ここ一年ほど、自分の思考、感情を観察し続けることを習慣にしています。簡単に言うと、自分の中に 3名さまが居るような感じです。

1人目の「思考」は分析係で、人生のデータベースから情報を分析して最善の行動をシミュレーションします。そう言うと聞こえがいいのですが、思考は「エゴ」とも言える、少々厄介な存在です。ものすごく過保護で心配性の執事が頭の中に住んでいたらどうでしょうか。あれこれ行動を制限されて「あぁもう!わたしは自由にしたいのに!」って感じながらも、実際には逆らえずに過ごす羽目になります。観察を始めたころ、わたしの頭の中にもそんな口うるさい執事がいました。

2人目の「感情」は信号のようなものです。うれしい!と思ったら青信号、嫌だ!と思ったら赤信号を出してきます。一見ストレートでわかりやすいのですが、ネガティブな感情の場合は要注意です。感情が「嫌だ!」という時、目の前のことが嫌なんじゃない場合があるからです。心の奥底にある過去の傷を引き合いに出して、嫌がっていることもあるのです。まるで傷つきやすい子どものような感じで、さらに困ったことには、この子どもにはけっこう執念深いところがあります。

3人目は「意識」です。この意識が思考と感情を観察して、最終的な決定をします。自分を「観察する」ということは、常にこの「意識」でいることです。

感情が青信号を出していても、思考が「危ない」と言えば、迷いが生じます。感情が赤信号を出しているのに思考が「するべきだ」と言えば、責任感から嫌々することになります(この「するべき」という言葉は、脳内執事が好んで使う言葉です)。観察者の「意識」が、思考と感情を眺めるようになると、自分の中で何が起きているのかを客観的に見ることができるようになります。そうすると、思考や感情とうまく付き合えるようになってきます。

以前は、不安な時のわたしは「不安そのもの」でした。悲しんでいる時、わたしは「悲しみそのもの」でした。

たとえば、不安は思考がつくり出しています。不安な時は「どうしよう、どうしよう」と起こりもしない未来の心配をしています。それは、いまここには無いもので、起きるかどうかもわからないものです。いまここに無いものには、対処のしようがありません。さらに言うと、不安は自分が “勝手に” つくり出した幻想でもあります。

たとえば、悲しみは感情です。感情はもっとダイレクトに揺さぶりをかけてきます。感情に振り回されてひどいことを言ったりしたりしてしまった経験は、誰にでもあると思います。

最初の頃は、とにかく観察することを意識しました。「わたしは観察者でいるんだ」という意図を持ち続けて、思考や感情に持っていかれてしまったとしても、それに気がついたらすぐ、深く深呼吸をするようにしました。そうすると観察者の自分が帰ってきます。そうやって、つねに意識的に観察者に戻るようにしました。

わたしは空(くう)になって、思考や感情を眺めます。不安が出て来ても、いまここでどうにも出来ないことは、とっとと棚上げしてしまいます。悲しい時は「なぜ悲しいんだろう?」と問いかけます。悲しみの後ろには、ほんとうの望みが隠れています。そうやって自分と対話をすると、自分の望むこと、望まないことが明確になっていきます。

いま、わたしの中心にいるのは、いつもわたしです。3名さまが同じ方向を向くようになって、口うるさい執事は心強い参謀になり、傷つきやすい子どもは天真爛漫さを取り戻してきました。

そして、愛を感じる時には、わたしは「愛そのもの」に、うれしい時のわたしは「喜びそのもの」になって、3名さまはひとつに溶け合ってしまうのです。